筆もじスト 小林佳織 かおりんのブログ

あなたや写真から感じた事が私の手を躍らせます。ことばを書くのも子どもたちとあそぶのも私にとって大事なこと。筆を通して表れることばはただ一つのもの。

3.11を経験して思う 今子どもに身につけさせたいチカラ

まだあの日の記憶が

体感としてあるうちに

子どもたちには

 

困った時に

どうにかする気持ちになること

 

を叩き込まないと。

私たちは非日常の生活にいつなるかなんて

わからないんだという事を知ったはず。

だからこそ

未来を歩く子どもたちが

自分の力で自分で立ち上がっていけるように

大人はそのために何ができるかを

考えるべきなのだ。

 

英語とか水泳とか数多くの習い事は

非常事態ではあまり足しにはならない。

生活をどうやってしていくのか

どうやって毎日を暮らしていくのか。

生きるために必要な事

その力をつけるためにできる事

 

日常生活のどんな些細なことでもいい

ハンカチがない

歯ブラシがない

洋服がない

どうってことない事でも

子どもにとっては

いちいち危機的状況になっている。

その時どうするか。

聞く、頼む、自分でやる

色んな選択肢があるはず。

それを考えて決められる時間を持つ。

大人からしたら

ちょっとやってしまえる事でも

あえてやらない。

それがひいては子ども自身の力になるから。

面倒だし時間もかかる

でも思い出さなくてはならない。

大きな災害は近い将来必ず起きるって事を。

 

今小さい子を育てているお母さん

緊急時に自分が近くにいるとは限らない

すぐに戻れるかもわからない。

そうなった時に

子どもが自分でなんとかできるように、

困った時に

「困ってます」と言えるように

普段からの生活を考えてみたほうがいい。

大事なのはすべてのことをやれるかどうかじゃなく

なんとかしようとする気持ちを持つこと。

そして動くこと。

言葉でも行動でも。

 

それがあの日から始まった生活を

次に生かす事になる。

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3月10日に思うこと

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3.11が起きてからは

東京大空襲の話題はそうでなくなりましたが

72年前のこの日未明

東京は焼け野原になっています。

このあたりから全国の主要都市はほとんど空襲を受けています。

 

私が生まれ育ったのは文京区ですが

近くのお稲荷さんの狐さんは首がなかったり

欠けているものもありました。

子どもの時分は

爆弾が落ちたんだよ

と聞いても

そうなんだー

としか思っていませんでした。

子どもを持ってからの方が

恐ろしさや理不尽さを感じてばかりです。

 

実母は当時6才

その日は防空壕の中で

煎り大豆をずーっとかじっていたそうです。

呑気だなあと思っていましたが

あまりの恐怖にそれしかできなかったのだろうなと

今は思います。

未だに母は焼夷弾の音を忘れていません。

 

どんなに昔のことでも

子どもの頃に抱えた思いは

残っています。

今を生きる子どもたちに

どんな思いを抱かせるのか。

それは大人が作って来たこと。

 

それぞれの子どもたちが

それぞれの良さを感じて

それぞれに輝けるような

そんな未来になるように

今できることを

やっていく。

 

 

子どもの絵 見えたように描くということ

子どもの絵といって思い浮かぶのが

頭足人

頭から手足が出ます。

私はこの時期の絵が大好きです。

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     たまちゃんがうさぎにへんしんしてるの

                                3才6ヶ月 次男

       頭足人と同様に顔から足出てます。

       横についてるのはしっぽ。

       3番目なので発達は早めと考えてください。

 

 

 

でも巷で聞こえる声は違うようで

なんで顔から手足が出るの?

とばかりに

違うでしょう

体は?

首は?

耳は?

と質問ぜめ。

 

そりゃあ子どもたちは

嫌になりますよ。

でも親は絵を描くのが

好きになってほしいと思ってる。

ここ重要

「親は」です。

大人がそう思ってるだけで

子どもが好きになりたいと

思っているわけじゃない。

だって子どもが絵を描くのは

 

心が動いた時

 

だからです。

そうやって描いたものを

こうしたら?

ああしたら?

と言われるのは

受け入れられてないつまり否定されている

ということと同じ。

 

悲劇です。喜劇ともいうけど

大人の思いがここまで伝わらないという事実。

 

心が動いた時

ですから

印象に残ったもの、

見えるものつまり認識されているものを

じゃじゃーんと描きます。

ということは

子どもにとって頭から手が出るのは

自分から見て見えるのが手だから

見えるのが足だから描く

それだけのことです。

 

子どもが生活していく中で

他の子と遊んだり

ケンカしたりして

認識、つまり世界が広がっていって

初めて絵も広がっていきます。

だからね、子どもに絵に出てくる他の人は

「お母さん」なんです。

一番身近でしょう?

そういうこと。

ちなみにお母さんの顔が細長くなるのは

下から見上げてるからですよ〜。

見えたように描くんです。

 

子どもの思いを

今こういう風に見えてるんだなあって

みてみてください。

日付け、注釈も忘れずに。

 

子どもが絵を描いた時にしておく三つのこと

子どもが描いた絵を持ってきたら

やっておくことはこの三つ

 

①年月日を入れる

②名前を書く

③描いてあるものを聞いてそこにメモする

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    ウルトラセブン    3才8ヶ月  次男

 

これだけです。理由は

①何歳の時の絵なのかがわかる

②名前はきょうだいがいる時には必須

③子どもの絵には物語があるから

です。

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   赤ちゃんコアラ 歩いて公園に行くの

   ブーブー持っていくって言ってるの

                         3才10ヶ月  長女

 

子どもが絵を描くときのモチベーションはただ一つ

「心が動いた時」です。

子どもは物語の中で生きていますから

自分に起きた事でなければ

心は動かない

だから子どもたちの絵の中には

子どもたちが生きているんです。

その時の想いはその時にしか出てこない

いや、聞いた瞬間に引っ込んでしまうかもしれない。

それでも想いを聴き続ける。

子どもの話は秒単位で変わっていきます。

3歳児だったら尚更で

さっき「電車ー」って言ってたのが

3秒後に「ごはんー」になることは当たり前

「さっきそう言ってたでしょ!」

なんていう必要はないんです。

その子そのものがそこにあるから。

大人が

そうだねーと聞いてあげることで

子どもは

自分の思いを表現することを

受け入れられる実感を持ち

それが安心感、自信になっていくのです。

自分を否定されない場がある

ただそのことが

子どもと大人の信頼関係になるんです。

 

だから

絵を描いたら

ちょっと手を休めて

話を聞いてみてください。

目指す形なんてない

ただ在るものを聞く

そんな優雅な時間になるはずです。

 

 

新しい家族が増えた時に感じる事

自分の中に生まれる

優越感と疎外感

 

新しい家族が増える

それはもちろん嬉しい事

迎えるまでに

何がいるかなあ

どんな暮らしになるのかなあ

思いを巡らして過ごす日々

準備万端で迎えた家族

 

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でもそこから始まるのが

それぞれの関わり方の構築。

そこには

自分に懐いてくれない

応えてくれない哀しみ

逆に

自分に一番懐いてくれるところからくる優越感

 

新しい異分子が生まれた事で

それぞれ、我が家では六人六様のエゴが渦巻く

 

自分のやり方に

口出されるのが嫌だ

という気持ちを

子どもたちも大人も感じてる。

 

相手は無垢な状態で

自分にとって安全な相手を順に

認識しているだけなのに

こちらが勝手に好かれた、嫌われたと感じてる。

 

慣れだよね、過ごす時間や

アプローチの量で変わってくるだけだって

思ってるけど

意外と割り切れない。

まして子どもたちはそうだろう。

 

でもね

これって自分の子どもを持った時に向けて

偉大なるシミュレーションになる。

母親は新しい家族を迎えた時から

すでに圧倒的優位にあるけれど

他の家族は違う。

今回私の気分は

 

里帰り出産を終えた妻と子を迎えた夫

 

まさにこれ。

自分の位置をどうしたらいいのか

相手にどう関わったらいいのか

全て手探り

気持ちの揺れと向き合う時間

 

立場の違う気持ちを味わったら

もっと周りへの理解が深まるかもしれない。

 

この先六人プラス一匹の暮らしが

どう変化していくか

楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

14の春

14才

中学3年が見えてくると

先生からも

仲間からも

「受験生だしなー」

というプレッシャーを受けるようで

ついひと月前には

「一年もかけて勉強しなきゃいけないの?」

とぼやいていた長男

 

先日友達が行ってるからという理由で

あるテストイベントを受けにいきました。

 

帰ってきた時の様子といったら

この世の終わり

茫然自失

いってみたら綱渡りのロープから落ちてネットの上で揺られてる

そんな様子。

とりあえず風呂に行ったのですが

様子を見にいったら

こんな有様

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彼が自分から話してきたところによると

「壊滅的な状態」

「このままひどい人生になるに違いない」

と思うほどだったようです。

何しろ学年が下の子よりも悪かったのもショックに輪をかけていて。

本人は終わった後

「こんな壊滅的な状態でなんとかなるのか」

と聞こうと思ったけど聞けなかったそうです。

 

でもね、私としたら

この【聞こうとした】意欲が残っていたのが

一筋の光。

「なんとかしようとする」意欲が衰えていない。

これほど心強い事はない。

そして彼はこのままじゃダメだと思ったのか

体験に行ってみるとお願いしてきました。

 

ついつい

親は

子どもがショックを受けないように

子どもがショックを受けないような

準備を無意識にしがちですが

ここまでの衝撃でなければ

本人に届かなかったという事実。

 

まだこの先どうなるかはわからないけれど

自分で感じて

自分で考えることができていたら

それだけで前を向く力になる

それを信じるのは

大人の方がしんどいのは事実。

でもかけらでもそこが見えたら

腹に力入れてみててやろうと思うのです。