介護生活が始まる前に知っといた方が良い事
何と言っても
知識 です。
介護が始まると
生活にかかる様々なことが
選択と決断の連続になります。
介護保険の仕組みや流れなど
一般的に知らされている情報はもちろんですが
それよりなにより
気持ちの下支えになるのが
経験者からの情報
特にスタートしてからは
見切り発車で全ての事が進んでいくので
知っている事があるだけでだいぶ心に余裕ができます。
介護がはじまらなくても
高齢の親と向き合うには経験談って宝物
そこにフォーカスしたおはなし会、あります
https://ameblo.jp/miliwan/entry-12843996110.html
少しでも
心の荷物がおろせますように。
介護生活がスタートしたら必要な事
ずばり
心を整える事
です。
私自身、結婚生活と同時に始まった義母の看護生活、
リレー式に始まった義父の介護生活は約25年に及びました。
最初に覚悟があったとか、
義務感があったとか言うわけではなく
生活していきながら
段々と看護、介護生活にシフトチェンジしていったわけです。
同時に子育ても並行していたので
こうしてみたらなかなかな事をこなしていたなと
今は思います。
で、振り返ったときに必要だったのは
やっぱり自分の心をどう整えるか。
これに尽きる。
でもあいにく自分の心って
後回しにしがちですし
見ないふりもできちゃう。
心を整えるってなんか贅沢な気もするし。
介護+子育ては
どうしても自分の優先順位を下げがちなので
意識しないとあっという間に詰みます。
実際私は義母の看護生活時代は
今思えばうつ症状からくる
セルフネグレクトがひどかった。
それから心の学びを始めたり、
色々な出会いもあって
心を整えられたのか
義父の介護の時には
それほどひどくならなかった。
だから確信を持って言えます。
まずは自分を大切にしてください

行き違う親子
子どもの頃、そう、携帯が普及し始めるまでの待ち合わせって至難の業だった。
どれだけ正確に伝えたと思っていても
受け取る側が同じだとは限らない。
背中合わせになったまま会えないなんてことも
あった。
それが劇的に変わったのが携帯電話の普及。
もう待ち合わせなんて言葉もなくなるんじゃないか。
ただそれなのにそれなのに。
私と長男はすれ違う。
しかもどこに来るのか知らされてるのに、である。
不思議でしかない。
JRと京成、どちらに来るのか
今までの経験から
駅名だけでなく頭にも書くようになった。
それでもすれ違う。
どうしてそうなるのか?
そう、思い込み。
みた時に瞬時に思い込む。
慣れてるからこそ
見直さない。
やっぱり慣れや思い込みは禁物ってことで
ああ、どんなことにも通用するって今更気づいたのであります。

見えてるものがすべてじゃない
間もなく訪れる富士山の山開き
実はワタクシ、齢6歳の夏に富士登山をしております。←最近思い出した
それがきっかけに山ガールになったとか
そういう事は全くなく
逆に苦行のクライマックスを終えて
登ることに興味を持たなくなったとかならないとか。
まあそんなこんなの就学前の子どもが
富士登山をしている最中、こう漏らしたそうです
お母さん、富士山って登ったらきれいじゃないね
まあこれが正直なところ。
だって高山です。森林限界突破してます。
きっと頂が白く、青い稜線の山を登れるんだーって思っていたのでしょう。
実際に登ってみたら石ころや砂しかない時々岩
歩いても歩いても
8合目、新8合目…なんだか同じような場所と名前ばっかり
そんなこんなでぼやいたのでしょう。
真理です。
そして半世紀以上生きてきても
同じような事を繰り返してる。
注文したオムライスがメニューより小さかったり
遠目で見たモッコウバラがきれいで
近寄って撮ったらカスカスだったり。
結局見てることばかりが真実でもなく
やってみてわかることもあるんだって
わかってきたのが現在地点。

思ったほどこんもりしてないの
ひとりじゃないんだ
歳を重ねれば重ねるほど
人はひとりじゃ生きられない事を思い知る今日このごろ。
新年度になってからの配置換えで
だいぶ想定外の仕事に関わってます。
小学校の特別支援教育支援員を皮切りに
昨年は20数年ぶりに幼児教育の現場に復帰。
今年はフルで幼児に関わる予定、
だったのが
色々と人の配置を考える業務になりました。
まあそうなると
畑違いこの上なし。
しかも今の園と関わりだして日も浅いので
わからないことがわからない
そして思い知るのです。
ひとりじゃ何にもできないって。
ただひたすら
色んな人に聞くのみ。
そのたびにいい知恵をいただいて
ブラッシュアップしていってる
…と信じたい。
でも確かに言えるのは
他の視点を入れる事は大事。
だってね
三角帽子みたいに前から見て三角でも
下から見たら丸いでしょ。
ひとたび見方を変えたら
見え方は違うから。
そんな事をこころに置きつつ
やっていくのです

千と千尋の神隠しが舞台作品である意味
話題の舞台を遂に鑑賞。
もうとんでもなくプレミアチケットらしいのだけど
幸運に幸運を重ねて観る事ができました。
映像としての完成度の高い作品が
どう3次元になるのか楽しみでしたが
まあ、それはそれは
出し惜しみのないアイディアと技術。
そして繰り広げられる物語も
映像作品では気づきが浅かった
「誰かを想って動くことの優しさと強さ」
がより強く心に迫ってきました。
そしていろんな舞台でいつも大好きなのが
カーテンコール
舞台って沢山の人が関わってる、
ひとりじゃたどり着けない世界。
その一人ひとりが
ぜーんぶ集まる瞬間。
私は演者さんたちが
オケピの演奏の方々に向けて
拍手を寄せる姿を見るたまらなくなるんです。
そういう気持ちでいるからこそ
居合わせた観客も含めた
その日だけの作品になるんだなって。
やっぱりね
舞台は生で観るのがいいです。
時間が共有できる
空気を共有できる
気持ちを共有できる
沢山の人が
舞台に足を運ぶようになるといいな

物語だからこそ描ける事
スウィーニー・トッドを観劇
幕が下りたその時
ただただ襲ってきたのは
無力感とやりきれなさ。
こんなに救いようがない事ってあるのか?
帰る道すがら
息子、娘は思い思いに語りだしていた。
幸せであったであろう要素
共感できる部分
理解できない部分。
この物語は沢山の理不尽と矛盾を
これでもかと突きつけてくる。
都合よくいい話にはならない。
そして最後に示す
「誰にだって起きうること」だと。
そして再び考える。
何がどうしたら良かったのか。
ぐるぐる考えても
答えは出ない。
ただ沢山の感情が湧いてくる。
正解もないし、答えもない。
そういう事を目の前で見せてくれるのが
作品の果たす役割でもあり
舞台という装置を使って知ったことは
人生の幅出しになる。
観劇っていうのはこれだからやめられない
