3月1日で姑を見送ってから丸3年が経ちました。
退院する日の朝に
倒れたという知らせを受けてからの時間は
今でも霞のかかった記憶です。
それでもその後に続く手配と作業は
近しい関係であればあるほど
心引き裂かれることに違いないのです。
私の場合は
嫁
という立場でありながら
姑の後半人生をほぼ
ライフラインとして請け負っていたので
彼女の「こうしたい」気持ちは聞いていました。
だからこそ
姑の思い描くような送り方をしたい
きっとこれだったら喜ぶだろう
ということだけ心がけました。
結果、葬儀の形としては自身がやりきった感でいっぱいで同居して初めて褒められるんじゃないかと思ったくらいです。
それができたのも
16年余の間深く濃い関わりをして来たこと
きっと姑も腹わた煮え繰り返ることもあったと思います。私もありましたから。
それでも最後は
あなたがいないと死んじゃうわ
と言われ
(それがたとえライフラインだったとしても)
私の存在意義として成立していたのです。
だからこそ望み通りの送り方ができたと
胸を張って言えます。
見る人から見たら悲しんでないとお叱りを受けたかもしれません。
人が人を送る時
どんな形であっても
その人となりが表れます。
送る本人の心の望むようにできたらいいのです。
そこに形とか度合いとか位とかはいらない。
そして立ち会うことがあったなら
一番近い家族の想いを
大事にしていける
そんな人に私はなりたいのです。